(2)大衆を欺瞞する音楽家
「現代音楽はわからない」というのが一般の定説になっている。それに対して、音楽家や批評家たちは「人間の感覚は保守的であり、芸術の創造はつねに先行する」と
様々な例を引きあいに出 して、その正当性を説得しようとする。
さらには一方的に、「音楽が解るとか解らないなどというのは、所詮ナンセンスでる。 なぜなら音楽は決して理解をするといった種類の文化ではなく、より感情的、感覚的
なものである。したがって音楽にはもとより思想も目的も意味も存在はしない。音楽 は、ただその流れの中に身をゆだねて、感覚的に享受する以外のなにものでもない」
と主張する。
現代における多くの作曲家、演奏家たちは、音楽を愛好する大衆のそうした考え方に 対する不満の声を黙殺しながら、ひたすら自己だけの音楽の世界に没入し、大切に自己の理念を抱きながら、大衆とは遙かに遊離した位置に所在して、大衆を睥睨
しながら自己陶酔に満足しているといっても過言ではあるまい。
他方、商業主義に隷属した流行音楽は、人間の本能的欲望に隣接した低次元感情の 飽くなき刺激と奉仕に終始し、利益率を唯一の基準としながら、マスコミと結託
して、公害音楽のたれ流しに専念している。
音楽の人間に与える影響は実に多大で、計り知れないものがある。
場合によっては、人間性を変化させるほどの影響力を有しているとも云える。
しかし音楽の有する特質が不可視のために、音楽に対する判断は非常に曖昧にされ てきたし、見過ごされてきたと云ってよい。
これは一般大衆だけに限らず、音楽家についてさえも例外ではない。
音楽家や音楽を供給する立場にある人たちが、確固たる目的や理念を持たず、ただ 自己の欲望や生活の為だけに、音楽活動を行うことは、そのまま大衆に多大な犠牲
を求める罪悪行為であり、それを意識するとしないに関わらず、結果的には大衆に 対する欺瞞行為であることを知らなければならない。
いずれにせよ大切なことは、音楽の方向を誤らせ、民衆から音楽を奪ってきたのは 明らかに私たち音楽に携わる者の責任であり、同時にこの転換をなし得るのも、私
たち現代の音楽家であるという認識と責任を忘れてはならない。
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